2022.08.20
普通で普通ではない、リアルな人生の話。
小説のような、ドキュメンタリーのような、エッセイ。
タイトルにまず惹かれて、単語のセレクトや文体が気に入り、読むことにした。
ただの発達障害の子育て体験談ではなかった。
自分を知って、受け入れることの大切さが分かる本。
10ページくらい読んだら、先が気になってやめられなくなった。
お風呂で一気読みの後、別の日にじっくりと再読した。
楽しいのに鬱になる
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才能があって、容姿淡麗で、健康でまだじゅうぶんに若い。
側から見て「幸せでないわけがない」と思える人が、自殺をする。
すごく悲しいけど、なぜなのか謎でしかなかった。
著者は、勉強が出来て、幼い頃から成績はいつも一番だったという。
社会に「優秀」と認められていながら、なぜ自殺をしようとするのか?
ただ一言「つらい」と、誰かに言えれば良かった。
悪い意味で「優等生」になってしまっていた。
学校、規範、ルール、人間関係へ過剰に適応し、間違えないように必死だった。
間違えないように。怒られないように。心配をかけないように。
そうしているうちに、心理的に孤立していた。相談できなかった。
大学を辞めようとしたことに合理的な理由があるわけではなかった。
つまりそれは「大学生としての自分」の自殺念慮だった。つらいから破滅したい。壊したい。
大学を休学して、鬱が回復した著者は大学卒業後、就職をする。
仕事が楽しかった。
「これはまさに自分がやりたかった仕事だ」とも思っていた。
終電まで仕事をすると、妙な高揚感が湧いてきた。
そして身体はボロボロになっていった。
内科医に促されて通った精神科では、鬱と診断されたが、納得がいかなかった。
しかし朝に力が出ず、布団から出られない。
なんとか家を出ても、電車がつらくて途中駅で降りてしまう。
まだまだ仕事を頑張りたかったが、心と身体はもっと動かなくなっていった。
精神的に孤立し、「自殺しよう」と自然に思うようになっていた。
「僕のまわりには半径1mのバリアが張られていて、誰もこの中に入って来られないようになっている」
人通りのない道路で座り込んだあと、生きて家に帰れて、震えていた明け方もあった。
冷水のシャワーを浴びたこともあった。自傷行為だった。
毎日ギュッと絞られるように胃が痛んだ。
レールから降りたという感覚。そして生きていく希望が一切見えない感覚。
著者いわく「楽しいと思えるようになるために払っている無意識の努力」、ポジティブな思い込みがあった。
幼い頃から、誰かが僕の心からこぼれ落ちてしまう本音を掬ってくれたら、どれだけ安心できただろう。
「あなたはあなたのままで素晴らしい」と一言伝えてくれる大人がいたら、どれだけ自己肯定感が育めただろう。
「一番でなくてもいい」「真面目にやりすぎなくてもいい」と肩の力を抜かせてくれる誰かがいたら。
どれだけ優秀であっても、勉強や仕事が楽しそうでも、こころの底からしあわせなのかどうかは、本人以外には分からない。
世間的な評価や「こうあるべき」よりも、自分のどんな本音でも受け入れ、肯定することさえ出来れば、きっともっと楽に生きられるはず。
死なない子育て
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「鬱」、「発達障害」そして結婚と子育てという経験から、著者は学び続ける。
人を頼れるようにならないと、また同じことを繰り返してしまう。
シェアしあえる人間関係を作りたい。
自分を反省し、彼女に何でも話せるようになった僕の体調は、すこぶる良くなっていた。
結婚し子供が欲しいと強く願った。
子供が生まれてしばらく経った時期に、著者は発達障害の診断を受ける。
父として、強くあらねばならない。稼がなければならない。
娘が生まれる前から、固定観念にとらわれていた。
生まれて半年も経たない時期に、父親である僕が鬱になった。
頑張っていたが、頑張りすぎて鬱になった。
父親や夫という役割の「普通」という固定観念が、「普通」でない僕にとっては「障害」になった。
仕事は忙しかったが、順調だと思っていた。
「この子のために、命をかけて頑張ろう。頑張れるはずだ。」と。
僕は死ぬかと思った。常套句としてではなく、本当に「死ぬ」と思ったのだ。
子育てを通して、再度「死ぬ」思いをした著者は、また子育てを通して救われていく。
構造的に子供を支配している親:主体性を尊重したり、選択を狭めたりと親は子どもの人生に強くかかわる。
受動的な営みである子育て:「自然」である子どもを受け止めて、寄り添っていくことが求められる。
「ごきげんな状態で子どものそばにいること」
「ばあちゃん」が僕たちを見守ってくれていたように、僕も生き延びて、子どもを見守っていこう。
娘と学校に向かって歩きながら、「休んでも良いよ」と言っていると、娘は「赤ちゃんにも優しく言ってあげようね」と言っていた。
著者たち親子の日常的な会話が、ほんとうに優しい。
なんとか生きていく
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26歳で発達障害が発覚した著者は、そこから希望を見出していく。
障害者雇用(2021年〜企業は全社員のうち2.3%以上の障害者を雇用する義務がある)という働き方を選び、ネガティブ・ケイパビリティを身につけていく。
事実や理由をせっかちに求めず、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいられる能力。
周囲に対する感謝と配慮を常に持ち、共に成長していくという働き方。
企業に提供義務があるが、自分自身も一緒になって取り組んでいくことが大切。
理想と現実にずれがあり、無理のある不自然な生き方をしてしまっていた著者。
普通にならなくてもいい。たくさんのお金を稼がなくてもいい。強くなくてもいい。
著者は、スピードを落として、立ちどまるという生き方を受け入れていく。
まず発達障害がある。
感覚過敏もある。
疲れやすいのも特性のひとつ。
その上、疲れに鈍感。
低気圧の日に調子が悪くなっていること、天気痛、気象病。
鬱も大きな「障害」。
きちんと通院をする。
服薬し、健康的な食事をして睡眠をとれば、いつか必ず良くなる、大丈夫。
横になって、人を待ち、また人に待たれることの大切さを理解していく。
わたしの行為の、あるいは発言の、どれひとつとしてだれにも待たれることがないという事態に、おそらくひとは耐ええない。
「待たれる」ことがじぶんの存在の最後の支えのひとつになりうる。
(哲学者 鷲田清一)
子育てにおいて「待つこと」は、自分を育て直すことではないだろうか?
コロナの到来と同時に、著者はフリーランスでの働き方を選択した。
働き方の変化に合わせ、現在も実践しているというセルフメンテナンスの方法が、とても参考になる。
フリーランスで働いていると、帰属する場がない。
余裕がなくなったときこそ、「しんどい」と言える場がほしい。
家族だけでなく、複数の「居場所」が必要だと痛感した。
経験を踏まえて、ライター仲間でコミュニティを作っている。
週に一回はオンラインで顔を合わせ、忙しいときには「大変」と一言漏らすことのできる場になっている。
著者は「発達障害があっても父親になって子育ては出来る」「子どもがいる人生のほうがいい」と言っているわけではない。
「運が良かっただけで、何が良く作用したのかはわからない」のかもしれない。
子育てにおいては、誰もがまずは自分を大切にしなければいけない。
みんななんらかの障害(ものごとの達成や進行のさまたげとなること)をかかえている。
まずは自分を知ることから、前向きな試行錯誤がはじまる!
「世間の評価<自分の幸福」
自分だけのしあわせな人生を生きていこう♡
このブログを読んでいただいてありがとうございます。
あなたに思いがけないハッピーがありますように!
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